武器をとるのか、無抵抗主義で行くのか

 ロシアのウクライナ侵攻は、平和ボケしている日本人にとって別世界でしかないのかもしれない。唯一、というか私たちに突き付けられている問いを真剣に考える時間をとらないと、今回のロシアの蛮行は、日本に何の教訓ももたらさないであろう。それは、ウクライナで実施されている多くの男性はウクライナ国内に残留しているという事実である。祖国の危機に対し、自分たちの愛する肉親たちを守るという意思を貫くために武器を持って戦っている。

 

 はたして自分の身にこういう状況が訪れた時、私自身はどうするであろうか。銃をたとえ攻め込んできた敵であろうと人に向けて撃つという行為は、簡単に言えば殺人である。戦争下においてはやむおえないといえど、武器を持って戦うということは、殺しあうことにすぎない。頭でそれを拒否しながらも、そののような状況を果たして受け入れることはできるであろうか。

 

 自分一人であれば、無抵抗主義は現実になりうると思うのだが、自分の肉親に危害が及ぶとなれば、何らかの抵抗は行うと思われる。究極の選択をすることになるかもしれない。これはきれいごとで理屈付けされないかもしれない。真剣に悩んで結論が簡単に出るものではない。戦争下の戦いのさなかでの殺人云々というだけでなく、人間が人間を理由なく(国としての理由付けはあるかもしれないが)傷つけあうことの意味を考え抜くことができるであろうか。

 

 20世紀前半に行われた2度の世界大戦を経験して、人類は戦争の愚かさを十分に経験し理解したはずである。それが50年近い冷戦を経て、大きな熱い戦いを生まない素地を作ったはずである。ヨーロッパ連合の成立は、ヨーロッパに二度と戦火をもたらさないがゆえに生まれたはずである。その人類の進化の成果を踏みにじるような暴挙がロシアのウクライナ侵攻である。ここで、人類は再度自分たちの愚かさを認識し反省することを求められている。

 

 そしてもう一つ気にかけておくべきことがある。ロシアのプーチン大統領の支持率がここにきても8割程度あるといわれている。これは情報が統制されているためであろうが、これだけインターネットが発達しても、正確な情報を獲得するための方法が限定されていることは驚くべき状況である。人類はその意味において進化は止まっているのであろうか。1世紀前と比べても進歩していないとしか考えられないのが残念である