安倍晋三の国葬、今更ながら反対

 国を二分する結果になった55年ぶりの国葬の実施。安倍晋三氏は罪作りである。就職氷河期を抜けて、正社員として就職できた若い人たちは収入が伸びなくても、安定した生活を提供してくれた安倍晋三元首相への感謝を語るのか。それとも、アベノミクスがもたらした大幅金融緩和による1000兆円を超す赤字国債の垂れ流しなのか。皮肉にも、国際経済において、孤軍奮闘の金利引き上げを拒否し続けている。

 

 インフレが進む欧米の経済状況は、欧米各国が競って金利を引き上げないと行き詰るところまで来ている。日本は円安ドル高を忌避したいところだが、金利を引き上げれば積みあがってしまった赤字国債金利の上昇を回避できないため、欧米各国の金利引き上げには追随が不可能である。つまり、日本だけが国際経済の動きには同調できない状況になっているのである。これを安倍晋三氏の功績と採るか、残念ながら失策と採るかは、日本国民の選択である。しかし、どのように考えるかなど、今となってはあまり意味がない。

 

 それよりも何よりも、日本経済の危機をどのように乗り越えるかである。それは、日本国民が、可能な限り金利上昇を余儀なくされる前に、借財を減少させることで可能になる。しかし、その可能性は限りなく小さい。日本国内の経済格差の拡大が、日本経済の発展の阻害要因と化しているためである。富める者だけが、豊かになっていく経済構造は国民をますます貧困化させる。

 

 振り返って考えてもらいたい。高度経済成長の要因となったのは、一億総中流という条件があったからではないか。隣の芝生を気にしながら、可処分所得が増えれば、競い合うように消費にお金を回す余裕があったからである。今や明日食べるために働くしかないなくなっている家計の余裕のなさを、どのように克服することができるのか。将来の夢を考えることさえ断念して、日々を諦めの中で過ごしている国民が増えているのが実情ではなかろうか。

 

 GDPを増やすには、消費の増大が必要なのだが、それを可能にするのは可処分所得の増加ではなかろうか。昨年の国民一人につき配布された特別給付金10万円は、将来の生活不安を払しょくできないまま、退蔵された場合も多かっただろうが、これが永続的に支給されるようになれば、将来を気にせず消費支出として使われたのではないだろうか。総需要が増えるような経済政策が実行されること。日本経済の復活はそこから始まるのではなかろうか。