77年目の敗戦記念日

 昭和天皇玉音放送においてポツダム宣言を受け入れ、連合ウ国に対して無条件降伏をしたのが77年前の8月15日。戦争の悲惨さを思い起こし、二度と戦火を生まないという約束を忘れないでほしい。ロシアのウクライナ侵攻により、戦火を引き起こさないためには、それなりの防衛予算が必要だと、GDPの2%まで引き上げようという策略がうごめいているが、飛来するミサイルを打ち落とせる防衛システムなど、どれだけのコストがかかるかわからない。ましてや核ミサイルに対する防御などありえない。

 

 ほとんど実効性のない防御システムに10兆円という莫大な国家予算をつぎ込む意味がどれほどあるのであろうか。それでも米国との日米安保体制維持を名目に、防衛予算の2倍増額が既定路線として日本は突き進むのであろうか。

 

 防衛予算の倍増路線以外に、岸田2次政権には、旧統一教会自民党の関係を清算しなければならないという問題も抱えている。内閣改造にあたり、とりあえず旧統一教会との関係を改めるという条件で、新閣僚を決めるという方法で統一教会問題の終息を図ろうとしているが、結局関係が少なからずあった議員を登用せざるを得ず、しかも19人中8人と看過するには多すぎる人数を閣僚に登用した。これを見る限りでも、自民党議員と旧統一教会の癒着は想像以上に泥沼ではないだろうか。

 

 安倍晋三元首相の国葬問題でも、物議をかもしている。党内の雰囲気を巧みに先取りした形の決定であったようだが、国民世論は置き去りである。事程左様に、岸田首相にすれば国民感情よりは、自民党内の雰囲気を大切にするようである。結果的になんとも屈折した政策が行われる素地を作ってしまうのが、まことに残念である。

 

昔の職場に復帰?

 なんの因果か、昔の職場に助っ人を頼まれて、来年の3月まで手伝うことになった。ロートルの手だすけが必要になるほど、若手が育っていないのか、組織の弱体化が進んでしまっているのか、代わりの人をなかなか見つけづらい世の中になってしまった。小学校や中学校では、非常勤教師を確保するのに悪戦苦闘しているというニュースが話題になり、挙句のはては80歳を過ぎた非常勤の先生が小学校で働かざるをえなくなっているという。

 

 このような現象は、少子高齢化の影響で生産人口の高齢化が進んだせいだろうか。資本主義の利益だけを追求する姿勢が、日本の場合は人件費削減という自らの首を絞めるような形を生んだのではなかろうか。人件費コスト削減を究極的な目標とし、労働果汁を防ぐためにその場しのぎの対応を続けてきた結果が、どんどん現場を疲弊させていった。コスト節約を目標として、人件費削減を目標に正社員を減らしていくと、その反動というわけではないだろうが、管理責任を負わせられない非常勤の職員を帳尻合わせのために増やし続けることになるが、それがゆえに正職員の責任の比重が高まっていった。結果的に人件費コストは抑制されることになったが、現場職員の士気は低下せざるを得なくなり、組織としての収益拡大は望めなくなった。そんな状況が失われた30年続くことになる。

 

 原材料コストの値上げ圧力に対し、国民の消費需要の上昇が見込めなかったがゆえに、人件費の上昇を抑え込んで(賃上げ抑制)きた日本。その結果として、失われた30年として賃金がほとんど上がらない日本特有の現象を国民は甘受せざるを得なくなった。失業率が低下して、株価が上昇したアベノミクスは、結果的にごく一部の富裕層を潤わさせただけで、日本国民の多くは貧困層に落ち込んでいった。その間、教育費は上昇し、社会保険料も増加し続けた。賃金が上がらない上に、教育費や医療費は上昇傾向であった。

 

 いま、コロナ禍の影響で原材料があがり、原油価格が上昇を続け、ほとんどあらゆる生活用品の価格が上昇し、しかもGDPの2倍を超える赤字国債をかかえ、金利を引き上げることさえ不可能な状況にある。これでは国際社会がコロナ後の世界を模索し始めたにもかかわらず、日本はその追随すら許されないのである。「

 

 

安倍晋三元首相の国葬は許されるか?

 安倍晋三元首相の長期政権を賞して国葬を行うというのは筋違いではなかろうか。自民党の総裁として群を抜く功績を残したのなら、自民党葬は当然かもしれない。しかし国葬というのはどうであろうか?

 決めてしまったから、今からでは修正はあり得ないと考えるのか。面子だけで政治をやっていくことが正しいのだろうか。それでは日本国民のための政治とは到底言えまい。どうも、これまでの推移を考えると、岸田首相は煮え切らない(自分では決断できない)性格であるようだ。安倍晋三元首相が統一教会との関係で狙撃されたという因果関係を重視すると、統一教会といまだに関係が切れていない議員についてはそれなりの対処があっても良いと思われるのだが、自民党としては一切関係ないという説明である。

 これまでに何らかの関係があった議員(自民党やほかの政党議員)たちも統一教会だと認識していなかったという見解で、世評やマスコミの追及を乗り切ろうという考えなのだろうが、統一教会霊感商法などで違法な金集めを続けていた事実は消えない。勝共連合として活動してきた統一教会の違法性を無視して、日本国内で活動してきた事実をなかったことにすることはできない。ましてや自民党は日本の政治を主導してきた政党である。

 

 どうも信教の自由という枠で、精神の自由を盾に統一教会の支持も得ることが正しいという論理をつらぬこうとしているが、それは違うのではなかろうか。残念ながら、統一教会が日本国内で行ってきた霊感商法をはじめとする違法行為を容認することはできない。統一教会の行為を正当化できる論理は果たしてあるのだろうか。自民党清和会は、どのように弁明するのであろうか。

 

 

 

安倍晋三狙撃はテロだったのか?

 統一教会に対する狙撃した犯人の供述を信頼するならば、安倍晋三元首相と統一教会の密接な関係を恨んだ犯人の犯行という図式が浮かんでくる。

 そうなると民主主義に対する挑戦、民主主義に対する暴力行為だという考えは薄らぐ。政治的な動機というよりは、私的な怨恨に基づく犯行と考えるほうが納得がいくというものである。

 

 安倍晋三狙撃事件に対する一連のマスコミ報道は、まさに民主主義に対する暴力はありえない。という論調で事件直後から進んだ野党幹部のコメントもおおむねその論調で進み、それがゆえに選挙戦終盤で与党に対する批判は縮小してしまったような感がある。それはそうであろう。安倍晋三元首相は民主主義の殉教者のような扱いを受けて、今や国葬を行う必要があるという主張まで登場してきた。

 

 申し訳ないがここまでくれば滑稽でしかない。日本的な情緒に流される傾向が露骨にみられるようになってしまった。そして今になってその時の警護体制が通常ではありえないという意見も出てきた。警護対象者の背後があまりに無防備であったこと。そして犯人が背後3mに近付くまで認知しえなかったお粗末な警備体制が露呈した。それは、言い換えればわざとこの事件を発生させた可能性もありうると言っているのと同じではなかろうか。

 

 今回の安倍晋三元首相に対する狙撃事件は、不可解な部分が多すぎる。そして、物価高に対する責任を問われることを回避した与党自民党がある。野党が強力な政策を打ち出しえないが故の体たらくといった考え方もあるが、自民党に少なくとも3年間の政策運営をゆだねざるを得なかった要因を作り出したことは間違いない。

安倍晋三元首相撃たれる

 平和な(?)国と思われている日本で、元首相が撃たれるという事件が7月8日お昼に起きた。今朝はイギリスのジョンソン首相が閣僚の度重なる離反と官僚の辞職表明を受けて、与党内での支持がなくなったことを受けて辞意表明をしたというニュースが流れ、お昼には日本国内で元首相が撃たれるというニュースが報道された。

 

 残念ながら、暴力で政治は変わらない。というよりも、今回の暴力は、結果的に与党自民党に有利な状況を生み出すだろう。参議院議員選挙投票2日前、世論は自民党政権に同情的な投票行動を行いそうである。いついかなる場合でも、暴力で言論を封殺してはならない。暴力を認めてはならない。

 

 今回の事件がなくても。参議院議員選挙自民党公明党有利のうちに投票日を迎えようとしていた。それがテロ行為が起きたことで、どのような影響をもたらすか。犯人の供述を待って、犯行動機を確認してもらいたいものである。

 

 それにしても、防衛予算拡大(5兆円あまりから10兆円あまりへ、GDP比にして2倍、2%を限度とする)というような主張がいつから登場してきたのか。コロナ禍の大盤振る舞いもあったものの、国債発行残高は1000兆円を超えて、財政規律を守るべくうるさいほどの歳出制限がいわれていたはずが、コロナ禍騒動がおさまると、ロシアのウクライナ侵攻が起こり、安全保障問題が浮上して、防衛費を抑制していた蓋がなくなり、タカ派の人々を中心に安全保障費は聖域になりつつある。ハト派の岸田首相も、すでに2%までは容認するような勢いである。

 

 コロナ禍で仕事を失った人々に対する支援は、まだこれからも続く。年金減額問題も、新たな貧困者を作り出す。社会保障費や教育費にかける歳出も増えるばかりである。防衛費が突出すれば、その余波はほかの予算を圧迫する。それでは、将来の日本を支える人材に回すお金も出てこない。

 

 お題目を並べて、湯水のように使える予算をねん出できれば、問題は少ないのだろうが、現実は極めて乏しい財源しかない。それを優先順位を明確にして予算を組んで、メリハリの利いた行政を実践しなければならない。選挙は、その優先順位を最終的に決める場ではないのだろうか。その権利を保育する人が多いから、日本は衰退の道をたどっているのではなかろうか。可能な気切り、参政権を行使したいものである。

 

それでも岸田首相を支持しますか

 円安が進み、とうとう24年ぶりに1ドル=135円台となった。アメリカは昨年比8%以上の消費者物価指数の高止まりで、2か月続けて0.5%以上の金利引き上げが規定事実となっている。これで最大日米間の金利差は1.5%になる可能性もある。これではドル買い円売りは仕方がない。しかもEU金利引きあげにシフトする予定なのでこちらも1ユーロ=140円を超えている。これでは円の独歩安になるのも仕方がない。それでも輸出産業は利益が上がっているという理由で、日本政府は金融緩和からの経済政策転換を行おうとしない。

 

 世界的には小麦をはじめとする食料品全般の需給ひっ迫状況があり、しかもエネルギー資源の高止まり(原油は1バーレル=120ドルを超えている)の影響で、ほぼあらゆる商品やサービスが値上げ圧力に瀕している。そして巷では諸物価高騰の嵐が続いている。にもかかわらずコストを価格転嫁できない中小企業は倒産の危機に瀕している。また大企業の賃上げに、中小小企業のほとんどは追随できていないので、庶民の購買力は落ち続けている。年金受給者の給付される年金もわずかではあるが減額された。物価が上がっているのに、なんともわびしい懐具合が続くのである。

 

 そんな庶民の台所事情からすると岸田首相の内閣支持率上昇は何とも不可思議な現象である。正直な話、結果的に金融緩和政策を継続して円安を放置している以上、今回進みつつあるスタグフレーションの元凶は日本政府である。あとで見込み違いでしたという言い訳を聞いても仕方がないのである。家計が悲鳴を上げている今、何らかの対策を講じてもらいたい。

 

 防衛費GDP2%越えもあるという。日本国内の多くの家計が壊滅的な状況に陥りつつあるときに、防衛費だけは聖域であるがごとく湯水のように使うことなどありえない。日本経済の再建のためにベーシックインカムを導入するというなら理解もできるが、防衛費の突出に向けて赤字国債を乱発することは断固やめてもらいたい。

憲法9条は、今や・・・

 日本国憲法第9条(戦争の放棄。戦力および交戦権の否認)

 ①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は。国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 ②前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 憲法を変えようという動きは、まだまだ本格化する気配はないが、憲法の条文を有名無実化してしまう作業は徐々に進んでいる。シビリアンコントロールのもと、自衛隊が容認され、海外にも平和協力活動の一環として派遣され活動を続けている。そしてともに活動する国が攻撃を受けたときには反撃できるように集団的自衛権閣議ですでに容認されている。つまり、軍隊としての役割を担うようになっているのである。

 

 言葉による言い回しで、条文を空文化してきた日本政府は、専守防衛もすでに意味をなさず、いまや敵基地攻撃能力の保有が議論されている。しかも装備導入はすでに決定済みで、しかも敵地攻撃能力といえば角が立つのか反撃能力と言い換えて議論されているのが現状である。そして反撃という言い回しなら、いつ反撃に着手できるかという問題になり、そこも議論の対象になっている。これは相手側に明確に攻撃の意図があって、すでに着手している状態ならば反撃できるとすると相手がミサイル発射前でも反撃可能となる考えも出ている。

 さらに反撃目標についても、敵ミサイル基地に限らず「指揮統制機能等を含む地域」という議論までなされている。こうなれば、市民を巻き込むリスクが高まる都市部まで攻撃の念頭におけることになる。つまり、あくまで敵からの攻撃に対する反撃といいながら、極端な話、その恐れが高まったときは反撃可能であり、しかも反撃目標は幅広いとなる。

 

 つまり、危機的状況に追い込まれれば、相手方より早く、しかも多くの反撃目標に対してこちらから先制攻撃にをお行う可能性を排除しないということになりそうである。

それほど物騒な議論が、現実に議論されている事を国民は知っておくべきであろう。